すき焼き鍋としゃぶしゃぶ鍋

もう11月も4日。今朝、早朝の空には 朝焼けの鱗雲が 一面に広がっていた。昨日は、夕方から家族とお出かけ。出先で上の二人の娘と落合いわたしは、久しぶりに、3人の娘と杯を交わした。〈わたしはオレンジジュースだったけれど)

娘たちの父親は、今入院中だ。そんな父親のことを主に担っているのは一番上の娘。3人姉妹の一番上はさすがしっかりしている。両親の都合で、9歳にして、自立心を強いられたと言っても過言ではないだろう。

父親が入院して4か月。ちょうどコロナ禍で病院への出入りが制限されはじめたころで、制限ある面会も彼女一人と限定されたのだと聞いている。今は、意志を言葉として伝えることがままならないらしいが、長女の意思は伝わるらしく、オンラインでの面会時の様子を話してくれたり(聞いてあげられる気持ちの余裕もできたのかもしれない)、今までになく、わたしと3人の娘たちの間にも和みが感じられたような気がする。とくに、いつも私と暮らす末娘と、それぞれ離れて暮らす、上二人との娘たちと、3人の仲が円満でほしいととても思うのだ。

一番上の娘は、幼稚園のころ高熱に度々見舞われ、近くのかかりつけ医院に行くと、風邪ですね。とか、扁桃腺からの熱でしょう、と、そのたび、処方してくださるお薬を飲ませていたのだが、ある日、口の

周りに水泡ができて、慌てて、大学病で受診していただいた。検査結果は、若年性リュマチ。3か月位入院しただろうか。無事卒園、小学校へ入学したのだが、多分、月2回ぐらいは大学病院での受診が必要だった。病院は、隣駅なので、すぐなのだが、授業の途中で病院へ行ったり、帰ってから授業に出ることもあった。はじめのころ、本人は

そのことをとても気にしていた。受け持ちは男の先生だった。(中嶋先生と仰ったと思う)そのことを、お話したら、授業を途中で抜けて

病院へ行って、戻ってきたらまた授業を受けることを普通の生活としていくように、と、ご指導を受けたのを、今、ふっと思い出している。2年生になって間もなく、二人のお姉さんになって、それまで、病院へ付き添っていた母親がしばらくは一緒に行ってあげられなくなって、小学校の2年生で、もう、一人で、病院へ行って受診、お薬を

いただいてきたりしていたのだ。そんな場合、普通なら、父親が付き添うのだろうが、今思うと、いっさい、彼女の父親はそんなことしなかったと、これもまた、今にして気づく。

そんなことを、ここに書くつもりなどなかったのに、これもまたここに至るまでの道程、必要だったのかもしれない。書きたかったのは、

昨日、上の娘から手渡された、すき焼き鍋と、しゃぶしゃぶ鍋のこと。すき焼き鍋は大小2つあった小さいほうを持ってきの、と言っていた。包みを開けると、なんかどろどろ汚れた感じはするものの、なつかしさに、思わず、懐かしい、と大きな声で吐いてしまった。50年前のものだ。家族が5人になって、大きなすき焼き鍋を使うようになってから、小さい方は使わなかったと思うのだけれど、家族の去った後、一人すき焼きした形跡がしみ込んでいた。煮沸消毒を兼ね、洗剤を入れて何度も洗って、油分を含ませ火にかけたら、ピカピカになった。

しゃぶしゃぶ鍋は、まだ箱に入ったままだ。どんな風になっているだろう。二人の娘たちからは、お正月は、ぶりとかのしゃぶしゃぶね!と、別れ際、しゃぶしゃぶ鍋を必要とするリクエストがあった。

あのひとが、突然倒れて 意識を失うでもなく、そのまま帰らない人になっていたら、3人の娘たちそれぞれが、父親を愛おしく思うこともなく、表面はどうであれ、3人がそれぞれ3方を向いたままだったのではなかっただろうか。父親とは、凄いものだ。最後には言葉を失っても、その雄姿を示せるのだから。

f:id:m-bunko:20201104140739j:plain

早朝見た、空いっぱいの 鱗雲