信頼と言う言葉

いつも内科でいただいている薬がなくなったので、午前中、近くのT病院へ。水曜日はN先生のT病院での周1回の診察日。ここに越してきて間もなくのころ、お薬がなくなって、たまたま水曜日に病院へ行ったら、女医のさくら先生の担当日だった。それからお薬がなくなると、なんとなく水曜に行くようになって一年ぐらい経っていただろうか、桜の花が咲くころだったと思う。さくら先生が、他の病院へ移ることになって、じゃあ、今度、わたしはどうすればいいですか?って、困ったように言ったら、同じ水曜日の、N先生に繋いでくださって、あれから4年ぐらい経つだろうか。それなのに、緊急の時はいつも他の先生にお世話になったりするのだけれど、不思議と不安はない。
受付の前に、その前に立つと検温のできる機会が備えてあった。(以前は体温計を渡されていた)待合室はまばらだった。受付を済ませて、車の中とか、近い方は家で待っているのかもしれない。診察室に入ると、診察室が透明の幕で2分に仕切られていた。でも違和感はなかった。むしろいつもより、N先生に問いたいこと、ご相談したいことが楽にできたような気がする。どうしてだろう。お互いにコロナを安じ合う気持ちがあるからだろうか。薄いい一枚のクッションのせいだろうか。
そういえば、夫だった人が脳梗塞で倒れたのは3月ごろだったろうか。ちょうどコロナ感染多くなり、初めての緊急体制が取られた時期だったと思う。月1回、決められた人のみ、15分ぐらいの面会なのだと娘のKが言っていた。まだその頃は、会っても、意思疎通もままならない頃だったらしいのと、経過を聞く機会もなかったのだが、あれから半年も過ぎた今は、面会も様変わりして、オンラインになったようだ。左脳がダメージを受けているので、理解はできても言葉がともなわないのだと言っていた。でも最近は、大分回復してきて、言っていることはわかるらしく、部屋を片付けるのに、「これ棄てて言い」とか、あれこれ聞くと、ウン、とかダメとか反応するのだと、愛しむように娘のkが話していた。プリンターをさして、「これ捨てるよ」と言ったら、「使えるからダメ」と言ったとか。つい先日、娘たち3人と4人で会食した時の会話を、思い出したのだ。こんな穏やかな会話(?)ができているのも、オンラインのお陰かも知れない。と、ふっと思う。
 
8月に受けたわたしの健康診断の結果は、ほぼ健康、とのこと。ほぼ? 腎臓が多少、左よりの数字らしい。でも、年齢から、今のまま一生透析などはしないで大丈夫、との太鼓判を押していただいたような安堵感がある。病院の前のイチョウ並木の紅葉も今がピーク。青空を黄色い蝶がひらひらと舞っていた。自然が好きだ。
何時の頃からか備わったわたしの不器用な生き方。いまだに不器用なままいる。そんな中で
今日、N先生がおっしゃっていた「信頼関係」と言う言葉を、とても大切なものとして思い出している。
 

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クロがねガネモチの木、たくさんなっている、赤い実は苦いの?

写真は四季の森へ行った時のもの。
この、クロガネモチと言う赤い実は、苦いのだろうか?
鳥たちが黙って見ているなんてへん。
kayoちゃんは、きっと苦いんだよ、と言っていたけど、
二人とも、試食には至らなかった。