2022.⒒27日(鈴木 志郎康さんの作品を読んでいて・・・)

浜文庫で,鈴木 志郎康さんの作品を読んでいたら、うとうととしてしまった。

「母のことを」とか「ぼくはこの山が好きだ」とか「あかちゃん」「紫陽花の花を数える」とか 庭のヘクそカズラの葉が黄色く 紅葉しているのを遠くから見ると花のように見えるとか 自然への、眼差しがすごい。眼差しから詩は生まれる・・・。

へそカズラ・・について調べてみたら、やはり子供の頃よく見かけた植物に似ている。蔓になって垣根なんかにからんで小さなベルみたいな白い花で真ん中がえんじ色だったか可愛い花なのに、近寄ると青臭いような異様な匂いがして遠くで眺めるだけの花だった。そんなところが私とはとても違う。

今思い出したのだけれど,三角みづ紀先生も、鈴木 志郎康さんのことをどこかに書いていたように思う。詩人さんだから繋がっているのは当然のことだけれど、その人のことを書くって格別。(鈴木 志郎康さんは今年の9月8日に亡くなったと聞いた。)

「3月10日」と言う詩には昭和20年3月10日にはアメリカ空軍による東京空襲のことが 書かれていた。谷川俊太郎さんも、東京の空襲のことを書いていた詩を読んだことがある。家は焼け残ったとも。もしかしたら、鈴木志郎康の家が空襲で焼かれてしまった時と、永福町の私の家が焼かれた日は同じ日だったのだろうか。、昭和20年3月10日は、まだわたしは3才になってすぐの頃なのだけれど。記憶は何もない。母の実家に預けられていたのだろうか。従兄のお嫁さんのあとを、「おねいちゃんおねいちゃん」って泣きながらおいかけてきたの、とはよく聞かされた。

 鈴木志郎康さんは、もしかしたら兄と近い年齢年かも知れない。兄はとは5歳違いで兄はその頃母の実家茨城に疎開しいて、葛飾に住んでいた同い年の従妹と一緒に、地元の小学校へ通っていたらしい。姉たち二人は長野のお寺さんに疎開していたと聞いた。姉たちから、その頃の話はなにも聞いていない。次姉が中耳炎になてお医者さんに通う時寒くってね、と言っていたことを聞いたぐらいだ。その頃のことを、母に聞こうとすると、決まって、もうおしまい!と言って胸のところで手を合わせパンパンとした。そのころのことを書いた「もうおしまい!」と言う詩がある。詩集に載せたかったのだけれど、どうしてか、、ボツ になった。その中に出てくる、原爆の歌をのせるのには 音楽協会の許可をもらうのに2000円必要だと言うので「わかりました」と返事しておいたのになぜか、載せないことになって、そのことはとても今も悔やんでいる。 最終的に決めるのは私なのだから。「麦踏み」も、兄と母と3人の思い出の詩。あちこちバラバラになっている詩たちを一緒にしてあげないと、家族ががバラバラとどかか似ている。かな・・・?なんて思っていたら、午後7時過ぎ。

 夕食の支度、急がないと。最近、よくヘリコプターが団地の上を右往左往飛んでいるけど、どうしてだろう。音のするたび空を見上げていると何もできない、、、なんて嘆いている。